「伊江島の闘い」
今回の選挙結果は
大変がっかりしたけれど、
沖縄はすごかった。
そういえば、
政治の動きにがっかりすると
思い出して勇気が湧いてくるひとつに、
「沖縄 伊江島の闘い」があります。
べーすけは、「インドのガンジーさんもかなわないでしょ」
と言います^^。
沖縄の反基地闘争の原点ともいえる島です。
(以下、あらすじ。いい文章のをなくしてしまったので
闘いの印象が強くなってしまいましたが・・)
先の大戦で、
島民3000人のうち集団自決をふくめて2000人を失った島は、
米軍に占領され、島外へ強制移住。
その2年後、帰島してきた住民を待ちうけたのは、
米軍射撃場建設でした。
土地収用令の発効後、
1954~55年にかけて
住民立ち退きを迫られる。
頑として聞きいれない住民に、
業を煮やした米軍は
一気に実力行使にでる。
まだ薄暗いうちに、
伊江島の砂浜に横付けされた三隻の軍艦。
約300人米兵が武装し、
やがて手に手に銃剣や催涙ガスをもって真謝部落に突入。
土足のまま家々に上り込んで住民を引きずりだし、
家財道具をはこびだす。
そのうえで建物に火をつけては、
ブルドーザーで踏みつぶしていった。
真謝部落の300人は、闘うことを決意。
武装した米兵に対し、
農民たちのもつ唯一の武器は人間の誠意だったという。
「軍も人間だから誠意は通じる。
真心の闘いだ」
「土地を守るのは生きるためだから、
一人の死者も出してはいけない」
(「沖縄反戦地主」より)
「米軍と話すときも 正座をして 話す」
「肩より上に 手をあげない」
「言葉は、丁寧に話す」
こんな約束をして・・・
しかし、全住民の座り込んでの必死の訴えに、
米軍は耳を貸さない。
当初は農民の要求に応じ、
一定の生活補償と演習時間外の耕作を許可したが、
闘争の高まりを目の当たりすると、
その最低の義務も打ち切る。
生活の糧を失えば、
農民たちの闘いは続けられないはずだと。
それでも真謝の島民はあきらめず、
フェンスを乗り越えて基地内に「侵入」し、
のぼりを掲げて土地を耕す。
80数名が逮捕され、実刑をくだされても、
街頭にたって実情をうったえる。
過労と栄養失調から多くの病人をだしながらも
彼らは柵を越えつづける。
4か月後、激怒した米軍は、
素手の農民に
手当たり次第、威嚇射撃をおこなう。
そうして、打つ手をなくし、
疲れ切った真謝の人々が
最後に選んだのは、
「乞食」になって歩くことだった。
万策つきた農民たちは区民大会をひらき、
部落全体が乞食になることを決めた。
歩く気力のあるものは村外へ、
歩く気力をうしなったものは村内で乞食をすることになった。
「乞食をするのは恥ずかしい。
しかし、乞食をさせるのは なお恥だ」
と書いたのぼりを先頭にして。
乞食行進の反響は絶大だった。
伊江島の内外から激しい共感と援助の声が寄せられ、
暴力で土地を奪われた他地域の住民をのみこんで、
「島ぐるみ闘争」へと発展していった。
そして、
さしもの米軍も、復帰前後には一部の土地を返還し、
1976年の日米安保協議委員会の席上で
全面返還に合意せざるをえなくなった。
ただし、
移設地域の提供が条件となっているため、
実際にはまだ返還のメドが立っていない。
☆伊江島には、反戦平和資料館「ヌチドゥタカラの家」がある。
ヌチドゥタカラとは「命は宝」の意味だ。
入り口の白壁に
「すべて剣をとる者は剣にて亡ぶ(聖書)
基地をもつ国は基地で亡び
核を持つ国は核で亡ぶ(歴史)」
とある。米軍占領下の伊江島で、
米軍の土地強奪や基地と闘いつづけた
阿波根昌鴻(あはごんしょうこう〈1901-2002年〉)
の非暴力・反戦平和思想と闘いの足跡が詰まっている。
★この話をはじめて聞いたとき、
等身大のほんとうの人間に出会ったような気になりました♪
きっと、オオカミの眉毛をかりて見ても、
この人たちは人間だなって^^。
沖縄から日本から地球から
すべての軍事基地がなくなりますように(真謝)
※(真謝まじゃ)←響きが祈りの真言みたい
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