「子どもと本」(岩波新書/松岡享子著)のなかに、
『本は、所詮ことばでできているのですから、
本を読むためには、
ことばの力が必要です。』
と書いてあって、
ふいに「なるほど」
と思いました。
西欧諸国の伝えてきた文字文明は、
「所詮ことば・・・」
つまり「人間のことば」。
人間社会のなかで使われる
人間だけに通用する「人間ことば」だったのですね。
では、先住民族の伝えてきた「ことば」は、
「何ことばだったのだろう???」、
と、新たなナゾが湧きおこりました。
もう少しで解けそうなナゾナゾみたいで、
心がクルクルしていましたが、
何気に、今朝、お山に行って、
斜面林のなかで座っていたら
ふと、
「地球ことば」なのかなと思いました。
「人間ことば」に対して、、
自然との調和を重んじて地球を母なる大地として
受け止める先住民族の「ことば」は、
もっとふさわしい言葉があるのかもしれませんが、
「地球ことば」と名付けてよいでしょうか?
「地球ことば」を子孫に伝えるために、
彼らは、
文字ではなく、
口伝などを用い、
文字だけでは決して伝えきれないニュアンス(自然そのもの)を
鳥の声、風の声、雲の動き、動物の足跡をみて、
すべての存在のなかに秘められている「ことば」を
子供たちへ
伝えることができたのかもしれません。
「人間ことば」が、人間と人間の意志疎通をはかるものとすると、
「地球ことば」は、自然と人間との意思疎通をはかるものです。
「地球ことば」は、
自然と人とのコミュニケーションなので、
大地・水・空気・光・動植物の存在が、
まず、そこに背景として「在ること」が、
第一条件となります。
そのなかで、
自然との調和や会話が育まれることになります。
なので、
自然を失ってしまったとき、
その能力も失われます。
けれども、
もし自然が残っていたとしても、
わたしたちが、
「人間ことば」を
最も進んだ知的財産として、
西欧から
妄心的に受け取っている間は、
「地球ことば」は、
見えてこない、
聞こえてこない
存在していることにも気がつかないのかもしれません。
そうして、いつしか、
「人間ことば」だけを
会社や学校や家庭で、
使っているうちに、
地球に生きとし生けるものの声が
聞こえなくなってしまったのかもしれません。
本や絵本を
「ことば」にのせて、
子供たちに伝えるとき、
文字としては伝えきれない「ことば」、
自然界のなかに満ちあふれている「文字にできない言葉」
があることを、
それを今も伝え感じ残しているのは、
文字を覚える前の子供であったり、
文字を持たない人びとなのではないかと、
心の片隅にとどめておきたいと
思いました。
追記・・・<長年のナゾ>~文字信仰がこんなにも根強いのはなぜ?~
西欧諸国のように、
文字文明が発達して、
子どもたちへ
良質の本を伝えてきたはずの
いわゆる先進諸国の国々が、
いまだに地球環境や人々を侵略・搾取しつづけ、
調和や平和のなかで大人になることができず、
子供たちを育てることにもつまづいている。
一方で文字文明を重んじなかった民族の人びとが
良質の本がなくても
自然との調和のなかで暮らすことを
民族の教えとして受け継いでいる姿がある・・・
(先進国に侵略されなければ)
にもかかわらず、、
西欧列国を手本とする
経済信仰と同じように、
文字信仰が、
こんなにも、
わたしたち社会のなかで根強いのは、
ナゼなのだろうと、
ずっと不思議だったのですが・・・
私たちが、
自分を認識するときの世界観が「ことば」となり、
●人間中心の世界観をもつ人は、
「人間ことば」~文字文明を重んじる傾向になり、
●自然中心の世界観をもつ人は、
「地球ことば」~文字では伝えきれないものを重んじる傾向にあるッ!?
つまり、
根強い文字信仰は、
わたしたちの世界観、
西欧のもたらした「人間中心の世界観」でしょうか。
☆文字や本が、
「人間ことば」と「地球ことば」を
つなぐ架け橋となりますように・・・・♡
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